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東日本大震災 その3 (現実になった放射能の脅威)

地震から2週間余りが過ぎた。
震災報道しか伝えていなかったテレビもほぼ通常に戻り
AC(公共広告機構)のCMしか流れなかったのが、普通のCMも混じる
ようになってきた。省エネ電灯の宣伝とか、保険会社の窓口案内とか
震災に関連する内容が多いけれど、それでもなんだかホッとする。
ACばかりの頃は、緊急事態をひしひしと実感するよう迫られ、
逃げ場がない感じがして恐かった。

被災地の人にとっては、きっと今もそれが現実なんだろう。
今日(28日)の時点で死者10,804人、行方不明者19,036人という数字が
暗い現実を突きつける。どれだけ多くの人が家族や親戚、友人を
亡くしたのか、想像もつかない。

行方が分からなかった友人は、無事であることが分かった。
電気も通信手段もなく、手紙を救急隊の人に託して、それが実家に
届いたのだという。部員の友だちを通じて連絡をもらった瞬間のことは
はっきり記憶に刻まれている。誰かのことを心配し続けるのが
こんなに疲れることだとは知らなかった。
前にイラクで外交官が射殺されたと報を受けたとき、大使館勤務の友だちに
祈るような気持ちで電話をかけたことを、ふと思い出した。

今回の地震は、1995年の阪神・淡路大震災の約1000倍のエネルギーだという。
高さ10メートルの堤防や、最新式の対津波防波堤も軽々と乗り越え
場所によっては20メートル以上にまで波が駆け上がったということが
調査によって次第に明らかにされてきた。
多くの人が家と仕事場を失い、漁港や地場産業も壊滅的な打撃を受けている。

***

だが国際社会を含め、日本国内での関心も、今は別の問題に集中している。
地震の数日後に明らかになった福島第一原発での事故だ。
年明けからの中東政変一色だった各国紙のサイトのトップページが
突如、日本の地震と原発のニュースで埋め尽くされた。
中東の主要紙でも状況は同じで、なんだか奇妙な感覚だ。

事故当時運転中だった1~3号機に加え、使用済み燃料棒を貯蔵していた
4号機でも温度上昇がみられ、15,16日という早い段階で建屋(たてや)が損傷した。
2号機では建家の損傷はないものの、そのため逆に外部からの放水で
水位を上げたり温度を下げることができず、一時期、原子炉内の燃料棒が
冷却水から全露出したとも伝えられている。
危険な状態にある1~4号機のそれぞれの状態をモニターしながら
リスクの高い順に対応を迫られているのが現場の状況だろう。

そんな中、大量に放出された放射線物質が各地で被害をもたらし
波紋を広げている。もっとも過敏な反応が示されたのが水問題で
東京の一部の浄水場で基準値以上の放射性ヨウ素131が検出されたことで
店頭のミネラルウォーターが売り切れるという「買い占め騒動」がまた起こった。
妊産婦や小さなお子さんを連れた世帯では、さぞや心配だろう。
とはいえこちらは報道を見る限り、今の段階では恐れるほどの濃度でもないらしい。
現状が早く復帰され、長期摂取という事態にならなければ問題はないという。

それよりも心配なのは、福島第一原発周辺の土壌汚染だ。
むき出しになった大地に雨と共に降り注いだ放射線は、この先長い間
そこを耕地として農産物の生産にあたることを困難にさせるだろう。
東京で消費される野菜の大半は、栃木、群馬、福島といった地域で
生産されていたように思う。本当の「品薄」が始まるのは、まだこれから
先のことかもしれない。

そして報じられた作業員の部分被曝の問題。
作業員の被曝線量の上限が年間250mSvに引き上げられるなか
原子炉建屋の横のタービン建家で作業をしていた協力会社の作業員が
くるぶしまで浸していた汚染水の水面での線量は毎時400mSvに
達していたという。4日後の28日にも退院するという作業員が
浴びた放射線量は2~3Svに達する見込みという。
全身被曝の数値ではないので、ベータ線熱傷というやけどが
心配されたにとどまったが、高レベルの放射線を含む汚染水の存在は
原子炉の復旧・保全作業をもはばんでいる。

***

一連の報道を、なんだか呆然とした思いで私は聞いた。
まさか自分が生きている間に、被曝という言葉を新聞で目にし
連日のように放射線の数値を気にする生活が訪れるとは思いも寄らなかった。
両親とも広島出身で、広島で生まれ育った私の祖母は二人とも被曝している。
父方の祖母は、親を探して原爆投下直後に市内に入り「入市被曝」した。
母方の祖母は、爆心地から逃げてきた人びとの看護にあたり「二次被曝」した。
もう亡くなったけど、ふたりとも原爆手帳をもっていた。

父方の祖母の父(私からみると曽祖父)は、爆心地から近い距離に住んでいた
にも関わらず生き延び、爆風で片目を失い、ケロイドを広範囲に帯びながらも
90歳まで生きたという。母(曾祖母)は爆風で飛ばされ、今も行方がわからない。
祖母は私が幼い頃、焼けたヒロシマで見たことを話して聞かせてくれたような
気がする。残念ながら、幼すぎてあまり記憶にない。
ただ、生きていることを「ありがたいことだ」と口癖のように言っており
寺参りにも熱心で、ひどく信心深い人だと思った印象がある。
歳をとったら皆ああなるのかな、と漠然と考えていたが、
今思えば祖母は、親を探して入ったヒロシマで地獄を見たのだろう。
亡くなった祖母の部屋からは、書きかけの手記が出てきた。
原爆投下の瞬間、そして親を探して市内に入ったときのことが書き記してあった。

母方の祖母の姉妹は、原爆投下の日、友だちの代わりに建物疎開の作業で
市内に入り、直接被爆した。助けられて実家に運び込まれたときには
火傷など酷い状態で「見れんかった」(目も当てられなかった)という。
彼女は数日後に息を引き取った。
爆心地から少し離れていた母の郷里には、他にもたくさんの被曝した人たちが
逃れて来たという。その多くは亡くなったのだろう。
母方の祖母は私に原爆のことを語ることは一切なかった。

***

広島で私が通った学校では、授業の一環として「平和教育」というのがあった。
韓国人差別や、外国人の指紋押捺、沖縄の問題なども取り上げられたが
メインは原爆の話だった。平和記念公園周辺の慰霊碑巡りにも行った。
でも正直、「平和教育」は当時の同級生の間でも不人気で
私も特に高い関心をもっていた訳ではない。
重要性に気づいたのは、むしろ留学に出てからだった。

広島出身というと、欧米の人もアラブ人も、こぞって関心を示す。
何人くらいが亡くなったのか、今も市内に放射能の影響はあるのか。
当時良く知らなかった私は、帰国してから初めて真面目に調べた。
8月6日の式典にも参加し、今でも多くの人がいろんな立場で集まり
熱心にアピールを行なっていることを知った。

「8月6日午前8時15分、広島市の中心部に位置するT字型の相生橋を
視認目標とし、B29エノラ・ゲイから投下されたウラン型原子爆弾は
広島市の上空580メートルで炸裂した。」

爆心地付近では摂氏6,000度に達したとされる熱線で
人体は焼失し、影だけが残された石段が原爆記念資料館に保存されている。
子どもの頃に見たその石段は、数年前に再び訪れると、ずいぶん影の色が薄まった
ような印象を受けた。変化するものなのか、それとも私の記憶が薄れたのか。

「アメリカはこれを原子爆弾による攻撃であると早くから発表し、
軍部は調査団を直後に派遣。市内の日赤病院でレントゲン・フィルムが
すべて感光しているのが3日後に見つかったことから
新型爆弾は原爆と裏付けられ、被爆者や土壌などへの放射能被害調査が行われた。
当時広島市内には35~40万の人がいたとされ、そのうち約9~14万人が
その年の12月までに亡くなったという。」


ガンマ線と中性子線から成るという初期放射線の濃度は、
ざっと調べたところでは諸説あり、よく分からない。
爆心地で103~141Sv、500メートル地点で28~31Svという
指摘もあるが(Wiki)、放射線の種類によって測定値が異なるらしい。
炸裂の12 および24 時間後の原爆雲の全放射能は、広島では15.6 および
6.15 EBq(1EBq=1018Bq)という計算値もある。
換算など多くの単位が絡んでくると、もう理解はお手上げだが
3Sv以上で半数が、7Sv以上でほとんどの人が死亡するという基準からすると
とにかく、すさまじい量の放射線が原爆で浴びせられたことが分かる。

原爆が炸裂した際に生じた核物質(ウラン)自体や
核分裂性生成物の放射性降下物(フォールアウト)は
上昇気流によって9割が成層圏まで上昇したため、これによる地上汚染は
少なかったとか。最大で0.01-0.03 Gyだったとの指摘も(放射線影響研究所)。
残留放射線が少なかったのはよかったけど、それでもヒロシマの人は
原爆のせいでたくさん苦しんできた。
被爆による差別もたくさんあったという。

***

兵器としての核物質、放射能の使用と、原発事故による放射能の影響は
もちろんレベルが違う。だけど同じ単位で計測し、同じ種類の人体への影響を
危惧しなければならない状態になったということ自体が
想像を超えていたことで、戦慄を覚える。

一番の危険に晒されているのは、現場で働く東電の社員や、応援にあたる
警察、消防、自衛隊の人びとだ。
ハイパーレスキュー隊を派遣した東京消防庁の総括隊長が
「一番大変だったことは?」と尋ねられ、言葉をつまらせて「隊員ですね」
と答えた19日の会見は私を含め、多くの人の胸を打ったと思う。
これほどのリスクと恐怖を強いられながら、現場で作業にあたらねば
ならない人たちを必要とする原発、その電力に依存しなければ
大打撃を受けてしまう今の日本のエネルギー政策。

原発は運営停止を決めても、その後の管理自体が巨大なエネルギーや
コストを生じてしまうとの話も聞く。
そうなると簡単に廃絶、転換を実現することなど難しいのかも
しれないけれど、今回の事故は原子力にエネルギー供給を依存することの
リスクを見せつけ、真剣に検討を始める機会を与えてくれたのかもしれない。


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東日本大震災 その2(無事を祈る)

地震の翌日になると、いろいろ情報が流れ込んできた。
本来はこの日も研究会だったのだけど、緊急でメールを回して
中止にした。遠方から来る院生さんたちが道中でトラブルに
巻き込まれないよう、あわてて早めに決断したつもりだったけど
すでに遅く、皆さん関東入りしていた。
さいわい宿にはたどり着けたらしく、無事だと聞いてひと安心。
外出の仕事が消えたので、なんだか気が抜けて、部屋でテレビを点けた。
どこの局でもすべて、一日中、地震のニュースをやっている。
まったく同じ報道体制を見て、事態の深刻さをまた強く感じた。

それと同時に東北地方にいる知り合いのことが心配になってきた。
仙台出身の大学院の同期は、今は神奈川にいて、実家のご家族とともに
無事だと携帯メールで連絡が取れていた。
でもまだひとり確認が取れない人がいる。
たしか岩手だったよな、と思い、住所録を探して、戦慄が走った。
大船渡町・・・さきほどまでテレビで映っていた、津波被害で徹底的に
破壊された町の名前だった。
あわててメールを打ったけど、当然すぐに返事が来るはずもなかった。

災害時にむやみに電話をかけるのは迷惑だ、というのはよく分かってる。
それなら別の手段を探そう、とネットを必死に検索した。
携帯番号が分かればメッセージを残せるらしい、と分かり
番号を探したけど見つからない。いちおう手元にあるものは3年も前のもので
今も使われているかは不明。とりあえず打ち込んでも、預けられたメッセージは
なかった。

しばらく顔を合わせてもいなかったので、どうしようか迷っていたら
合気道部時代の先輩から、やはり心配して携帯メールが届いた。
消息や連絡先を知らないか、と。
思い切って彼のご実家に電話し、教えて頂いたが、やはり連絡はないのだという。
docomoじゃだめなのか、別の携帯会社のをもってるのかも、と考えて
後輩に確認してもらったけど、そちらにも伝言はなかった。
どんどん不安が募ってくる。

最近は特に連絡もとらず、年賀状のやり取りくらいの仲だったけど
二人目の子どもが生まれてしっかりお父さんらしくなってる写真に
時代を感じたものだった。
現役の頃(部活では「学部時代」を「現役」と呼ぶ(笑))は
同期にほとんど女子部員がいない中、よく遊びに連れ出してもらったりしていた。
演武で剣術の受けをしてもらったこともある。
まだはっきり面影や雰囲気も思い出せる友人が、あの土砂で埋められた町に
いるとは、うまく想像することもできない。
めちゃめちゃになってる町をテレビで見ると涙がこみ上げてきた。

どうしていいか分からない。
自分が直接足を運んで、現地で何か手伝う、なんてのは非現実的であることは
はなから承知だ。だいたい自分の体の調子も良くない。
行っても足手まといになるだけだ。
港に数百人の遺体が漂着、などとニュースが耳に入るたびに恐ろしくなり
ちゃんと報道を聞くことも辛くなってきた。
福島原発の放射能漏れが危険な状態であると繰り返し報じられても
どこか遠い世界の出来事のような気がした。
もちろん危険であることは十分理解しているが、その前に
今、生死が分からなくなっているという人が大勢いることの方が
重たく深刻な事態のように感じられた。

そのころ、連絡がなかった山形の知り合いから、Facebookを通じてようやく
連絡が入った。ずっと停電してたらしい。無事でよかった。
そう思って安心すると同時に、こうしてお互いの安否を案じている人たちが
今、日本国内に大勢いることに気づいた。
私自身、行方を知りたい人を探すのに、どうしたらよいのか方法を探るだけで
かなりの手間がかかった。
情報が錯綜していて、ネットを探れば大量に出てくるんだけど
それぞれが個別ばらばらで、探し当てるのが大変。
これが一箇所にまとまっていれば、と思った。

そうこうしているうちに、菅首相から「計画停電」の話が出てきた。
一日に3時間程度の定時停電、と聞いて、レバノンみたいだな、と思った。
あの国は内戦以来、インフラが完全には回復してなくて
配分も恣意的なため、しょっちゅう停電がある。
皆、慣れていて電気が消えても平気でおしゃべりを続けてる。
(空港で全館停電になったときは、さすがに私も焦ったけど (^^;)
ただあちらはその分、準備も万端で、電線からの供給がとだえても
数秒たったらすぐに自家発電に切り替わる。
多くの人は、家や事務所に発電機(ジェネレーター)をもってるのだ。

generator.jpg
(こちらはしかもSUZUKI製!)

だけど日本にはそんな物もあまり普及してない。
だから余計に混乱もするのだろう。

逆に言うと、今回の「計画停電」(実際には予定通りでは全然ないみたい
だけど)は、日本人の私たちだってよく理解できないのに
言葉が不自由な外国の人にはますますもって理解不能ではないか。
備えがない状態で迎える災害の不安は、いかに大きいものだろう。
たとえば地域分けのグループリストを英訳するだけでも
かなり違うのでは、と思った。

しばらくすると、ヨルダンやレバノン、イスラエル、そしてあの大変だった
エジプトからも心配して友だちが連絡をくれた。
連絡手段はメールだったり、Facebookだったり。
「大丈夫?お願いだから連絡をちょうだい」と慌てて連絡をくれる人や、
海外でも大きく被害は報じられているらしく、なんとか助けたい
「自分自身、現場に駆けつけたい」とまで言ってくれてる人もいる。
それは無理でも「心はともにいるよ(our thoughts are with you,
thoughts and prayers)」と言ってくれる人たちもいた。
暖かい心が本当にうれしい。

つながることで、お互いに情報を提供しあうことで
得られる安心感、できる支え合いがあるのではと思った。

そう思い立ってから、久しぶりに自分のホームページをいじり
情報サイトを立ち上げることにした。
タイトルはとりあえず「2011年 東日本大震災お役立ち情報
自分自身、友だちの安否を探すのに使ったサイトから初めて
役に立ちそうなリンクを説明とともに一覧にまとめた。

その過程で、震災への対策を多言語に翻訳して提供しようとしている動きがある
ことを知った。避難所の人たちの名簿をデジカメで写して、名前を書き出し
安否確認の検索サイトに登録していっている人たちがいることも分かった。
いろんなところで、たくさんの人たちが、自分にできることを
探して頑張っている。勇気付けられた。

私の友人の消息はまだ分からない。だけど彼は医者だし、やさしい人だから
きっと今頃はどこかの病院で必死に救護にあたってるのかもしれない。
そう信じたい。今はまだ、事態が混乱していて大勢の人の消息が分からなく
なっている。助けられた人たちも、まだまだ寒い季節の東北地方で
厳しい状態におられる。ひとりひとりが、できる限りのことをしたい。

「日本の戦後65年で最大の危機だ」と菅首相が言っていた。
枝野官房長官も会見や原発への対応続きで、ほとんど休んでないのでは。
専門家でもないのに、国民に分かりやすく、丁寧に説明をしてくれる
姿には誠意を感じた。
事故で予想外のことが起きるのは仕方ないだろう。それに対する
最大限の配慮と解決の努力をしてもらえればと思う。
原発の現場で作業に当たられているスタッフの方々にも本当に頭が下がる。

この地震が起きるまでは、支持率も低下しまくり「菅政権なんて」
とさんざんに言われていたけど、今回の事件を受けて言葉に力を込めて
全力で人命救助に当たると約束してくれた菅首相は頼もしく見えた。
今は本当に、国全体で一致団結して乗り越えるべき「国難」のときなんだろう。
私も、自分ができることを考えて、行動していきたい。


東日本大震災 その1(混乱の始まり)

11日の午後3時頃、部屋で休んでいたら突然襲ってきた巨大地震。
M9というのは日本での観測史上最大規模の巨大地震らしい。
「地震大国」で育っているので、私も少々の揺れなら驚かないけれど
部屋全体が小箱のように揺さぶられて、ものすごい音を立てて
物が落ちるのが聞こえたときは、さすがに焦った。
(後で確かめたら机からパソコンのモニターが落下した音だった。
 無事に復活してくれたのでよかった (^^; )

布団にもぐりこんで頭を枕でかばい、隙間から何が起きてるのか
こっそりうかがった。電灯の笠が半分以上外れたのが見えて、
あれが降ってこないといいけどな、と思っているうちに少しずつ地震は
おさまっていった。それにしてもずいぶん長く揺れてた気がする。

とりあえず状況を把握しようとテレビを点けると、番組がすぐに中断されて
地震情報に移った。スタジオの中も騒然としている動揺が伝わってくる。
だけどそのときはまだ、こんな酷い事態になっているなんて想像もしなかった。

***

幸か不幸か先月末、少し無理をしていたせいか体調を崩して
救急車のお世話になってしまっていたため、ここしばらくは外出を控える
生活が続いていた。だいぶ回復してきて、11日は復帰の初仕事!
最近の中東情勢からパレスチナはどう影響を受けるか、イスラエルの反応は
という話を、土井敏邦さんの企画で報告に参加させていただくことになっていた。
ニュースはずっとクリップしてあるものの、机に向かうことができなかったので
読み込めてなかった部分を、敷きっぱなしの布団に座って確認していた。
土井さんとも綿密に電話で打ち合わせをして、話の流れも準備万端。
だけどすさまじい地震は、それらを一気に吹っ飛ばしてしまった。

かなり大きな余震が続き、交通網が完全にダウンしてしまったとの報道を聞き
大急ぎで関係者の人たちと連絡を取り、その日の会の中止を決めた。
無理して開いても、どうせ人が集まらないだろう、その程度の判断だった
ように思うが、事態はそれをはるかに超えるものだった。

金曜日だったこともあり、仕事に出ていた友人が、電車が止まったので
4時間かけて歩いて帰宅するはめになった。就職活動の後輩は家に帰れず
東京駅周辺で避難所にお世話になることになった。寒い季節に
知らない人ばかりの間で床で寝ることになるなんて、さぞや不安だったろう。
なんとかしてあげたいけど自分も体調が万全ではなく、遠く離れていることもあり
何もしてあげられない。さいわい携帯メールは通じたので、ツイッターと併用で
遠足帰宅組の知り合いにエールを送った。
何が起きているのか知りたくてテレビのチャンネルを回しても
どこも正確な情報をつかんでいるところはなかった。
インターネットの気象庁や地震速報のサイトはずっとつながらなかった。

***

翌朝、早くに友達からメールがあり「コンビニのおむすびが売り切れてる」
と聞いて、ちょっとおたおたして朝早くから近くのローソンへ買い物に出かけた。
たしかにサンドイッチとおむすびは皆無だったけど、
まだ店内には十分に品物があり、お客もまばらで店員さんものんびりした雰囲気。
昨日の騒ぎが嘘のよう。家の近くのJRが走り出す音も聞こえた。
なーんだ、慌てるほどのこともなかったのか、と思いつつ、とりあえず
ローソンで保存食やら軍手やら懐中電灯やらをどっちゃり買い込んだ。

銀行でお金を多めに下ろし、スーパーの入り口を通りかかると
「地震の影響で開店のめどがつかない」との表示があった。
初めて、地震のすごさを感じた。ドラッグストアも大きい店舗は同じ状態。
小さい店舗が開くのを待って、カイロやトイレットペーパーを買って帰ろうとすると、
さきほどの近くのスーパーの入り口に人が行列をなしているのが見えた。
“再開のめどなし”って書いてるのに、なんで並ぶんだろう?そう不思議に思ったけど
思えばあれが混乱の始まりだったのかもしれない。

jishin02.jpg

その日も次の日も、ほとんど一日中、けっこう大きな余震が続くので
不安になって買い物に行くと、すでにスーパーに物はなかった。
お米を買わなきゃ、そう思って行ったんだけど、すでに棚にはひと袋も残っていなかった。
閉店間際かと見まごうばかりの品物の少なさ。
イラク戦争中に隣国のヨルダンに住んでいたときですら、こんな品薄になったのは
見たことがない。日本人は用心深いのか、それだけ事態が深刻なのか。
食パンも買えなくて、帰りに知り合いのパン屋さんに寄ると
「オイル・ショックのときみたいですね、トイレットペーパーを買いあさった」
といわれて、そんなものだったのかな、と想像してしまった。

ほぼ一日中、余震が続くので、とにかく万が一に備えて準備をしなければ
と思い、ほどいたばかりの着替えセット(前はいつでも入院できるように、の包みだったけど)
をまた包み直して、中に非常食も少し詰め込んだ。
以前、大塚製薬さんに呼んで頂いて、徳島に行ったときのお土産が
まだ少しあって助かった。今はあちらも仕事が大変だろう。
被災地に運び込まれるカロリーメイトの大きな箱を見て、なんだか苦しい気持ちに
なってしまった。自分よりも、東京で買いだめに走る人たちよりも、もっと食糧や
被災道具を必要としている人たちがいる。
そう思ったとき、ふと東北にいる知り合いのことが気になり始めた。。。

(「その2」に続く)

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錦田愛子

Author:錦田愛子
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