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ジュリアーノ監督の死 (2)

ジュリアーノ氏はイスラエル側では、むしろ監督ではなく役者として
名前を知られていたようです。
最後の出演作品は、ヒヤム・アッバースも演じた『Miral』(2010)だとか。
エルサレム・シネマテーク代表のLia van Leer氏に取材でお話を伺う
機会に恵まれたのですが、映画界の重鎮である彼女も、
ジュリアーノ氏のことを「非常にいい役者だ」と評価されていました。

ただしvan Leerは彼のことを「ジュリアーノ・メール」と呼び
アラブ名の「ハミース」は決して付けなかったのが、私には印象的でした。
ユダヤ人の母(母系社会のイスラエル)、パレスチナ人の父(父系社会のアラブ)
をもつ彼は、完全にイスラエル人でもあり、パレスチナ人でもあるといえます。
ですが個人としては評価しながらも「ジュリアーノ・メール」として
しかやはり受け入れられないのが、イスラエル社会の限界なのかと感じました。

同じことはパレスチナ側にも言えます。彼の父のサリバが共産党員で
クリスチャンと思われていたことから「ジュールもクリスチャンでしょ」
(ジュリアーノ、のことをアラビア語で呼びやすく、彼らはジュールと呼ぶ)
とジェニーンの人たちはいいます。それでも母子は「外国人(ajnabi)」として
捉えられ、初めは警戒されていたようです。
それが次第に打ち解けていったのは、彼らのジェニーンでの活動を通して
だったようです。

jenin04.jpg
↑「自由劇場」にある母アルナの頃の活動を偲ぶ写真

映画を作った動機を、ジュリアーノ氏は、劇場で育った子どもの死を
理解したかったからだ、と話しておられました。
2000年に第二次インティファーダが始まり、イスラエル軍とパレスチナ側の
衝突が激しくなる。前のインティファーダ(1987年~)のときのように
少年が投石で抵抗していたら、突然、実弾射撃で応戦されたそうです。
「軍がいつもと違う」
電話口で少年たちは、動揺した様子でジュリアーノ氏に話したといいます。
そして彼らはイスラエル兵から武器を買い始めた。

映画にも出てくるユーセフとニダールは、盗難したジープに乗って
イスラエル側のハデラ市内で無差別射撃を実行に移しました。
攻撃により数名の市民が命を落とし、ユーセフとニダールは射殺されました。
劇団でも暴力的なことに興味を示さず、おとなしかったユーセフ。
「なぜユーセフが?」という衝撃と疑問が、映画の製作に結びついたといいます。

hadera01.jpg

↑ハデラに残る事件の追悼碑

そのジュリアーノ氏が今度は命を落とされました。
ジェニーン市内で車に乗っているところを、覆面の男から銃弾数発を撃ちこまれました。
犯行声明は出ておらず、ザカリヤーなどは「組織的犯行だ」と非難しているようです。
イスラエルによる犯行、というより、パレスチナ内部の政治対立に巻き込まれた
可能性もあるのかもしれません。
「自由劇場」関係者は抗議の座り込みを始め、3日間の喪に服すと発表しています。
彼の活動を伝えてきたイスラエル報道の「Ynet」は事件をやや冷ややかに報じながら
「ジェニーンでの希望の死(Murdering hope in Jenin)」だと伝えています。

ジュリアーノ氏は自分をその生い立ちから「100%パレスチナ人で、100%ユダヤ人だ」と
自称していました(2009年インタビュー『Jordan Times』)。
そうした人物の存在は、いろんな政治勢力にとって厄介に映るのかもしれません。
実際、劇場はこれまで何度か攻撃の対象になってきました。
でもこういう人物が堂々と活動を続けることが、この地の紛争において
一種の希望となっていたことは事実だと思います。

彼が母のアルナについて「二民族一国家を信じていた」と話したとき
「今でもそれはナイーブな考えだと思う?」と私が問い返し
ジュリアーノ氏がしばらく沈黙したことを思い出します。
「それは夢であり、いまは遠ざかりつつある。非現実的には思えるけど
それが最終的解決なのかもしれない」
という彼の言葉は、重く心に残っています。

最終的な判断を下すのは、彼らパレスチナ人であり、イスラエル人です。
ですがそこに到るまでに、貴重な人物をまたひとり、私たちは失ってしまった
のではないかと思います。あまりに早く、突然に。
彼の夢の実現は、残された者に託されました。
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ジュリアーノ監督の死 (1)

ジュリアーノ・メール・ハミース氏が4月4日、亡くなられました。
彼は日本では映画監督として知られ、映画『アルナの子どもたち』は日本語訳されて
NPO「パレスチナ子どものキャンペーン」を中心に各地で上映されました。

監督の母のアルナは、「もうひとつのノーベル平和賞」を受けた賞金をもとに
パレスチナ自治区の北部ジェニーン市に子どもの文化センターを開きました。
その活動に密着し、自身も演劇の指導などをする過程で記録した映像が
映画の題材でした。センターに参加していた子どもたちが
2000年の第二次インティファーダ(民衆蜂起)の勃発後、どう過ごしているのか
足取りを追ったのが映画のふたつめのテーマです。そこには悲劇的な結末が
待っていましたが、安易な楽観や希望的観測が通じない、パレスチナ自治区の
厳しい状況をそのまま映し出すようで、個人的には非常に好きな映画でした。

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↑ 再開された劇場前のジュリアーノ氏

5年前、この映画が邦訳されたのを受けて、日本の新聞社の取材のお手伝いで
関係者を回って話を聴く機会がありました。
そのとき、ジュリアーノ氏自身にもお会いしました。
非常に快活でエネルギッシュ、というのが第一印象でした。
取材の道中で検問所などで足止めされて困ったときなど
積極的に介入して解決していただき「大丈夫か?」と声をかけて頂いたときの
頼もしさを今もはっきり覚えています。

もとはヘブライ語で教育を受けられたそうですが、ジュリアーノ氏は母のアルナ同様
アラビア語もぺらぺらで、ジェニーンの子どもや親たちにも好かれ
信用されているようでした。同行した取材では、彼がジェニーンに「自由劇場」を
再開するオープニングにちょうど立ち会うことができました。
娯楽の少ない難民キャンプでのイベントということもあってか
地元の大人や子どもや、イスラエル側から足を運んだ来客も含めて
満員で、大いに盛り上がりました。

jenin01.jpg

会場には、アル=アクサー殉教者旅団リーダーのザカリヤー・ズベイディーの姿も
ありました。彼もまた、アルナが育てた「子どもたち」のひとりです。
オープニングのイベントを、彼も穏やかな表情で楽しんでいる様子でした。
「自分と同じ機会を子どもたちが与えられるのが嬉しい」と
イベント後のインタビューで答えていました。

武装グループと劇場が結び付けられて捉えられるのを避けるため
ジュリアーノ氏はザカリヤーに、劇場には決して武器を持ち込むな
と口を酸っぱくして注意してしました。ザカリヤーもそれを素直に受け入れ
ふたりの間には信頼関係があるというのが感じられました。
ザカリヤーとしては、この劇場を守るというのを
自分の使命と感じていたようです。
とはいえ当時は、ザカリヤー自身がイスラエル軍から標的とされる生活
送っていたようで、ときどき身を隠し、連絡が取れなくなることがありました。

今回のジュリアーノ氏の暗殺を受けても、ザカリヤーはいろんなメディアの
取材を受けて答えています。

(2,に続く)
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